「ファッション資材」マスターのプロフィール

自称「ファッション資材マスター」の株式会社クロップオザキの2代目社長の尾崎博之です。

今回、尾崎博之とはどんな人生を生きてきたのかを自己紹介をいたします!

クロップオザキでの仕事

現在相談役の親父が創業した株式会社クロップオザキに入社したのが、22年前、1995年。バブル経済が崩壊し、DCブランドブームが去りつつありましたが、当時のアパレル業界は、まだまだ元気がありました。この頃からアパレルメーカーも海外縫製を本格的に始め、当社でも見よう見まねで、輸出の作業を始めたのが私が会社に入ってすぐの思い出です。そこから、いろいろなことを経験してきました。ファスナーを短くペンチで加工したり、ボタンにラインストーンを接着したり、とにかく細かい作業はお手のもの。ボタンの染色なんかも自分でやっていました。ボウルにお湯を沸かして、染料を入れて染めるのですが、染めたい色に色を合わせるのは難しいんです。特に難しいのが薄いグレー。どうでもいい事ですが、結構得意です!

洋服の資材は多岐に渡るので、全部を理解するのは至難の技。その資材を取り扱って覚えていくしかありませんが、私の場合、初めに担当したのが、メンズアパレル、その後、レディースカジュアル、ミセス、キッズ、そしてスポーツウェアも担当したので、幅広く、浅く(笑)知識を持っています。中でも得意分野は、ボタン、ファスナー、テープ、金属付属、ワッペン、刺繍と言ったところ。不得意分野は、レース、表生地ですかね。なんでも聞いてもらえれば、浅く広くは答えられます(笑)

大阪での仕事時代

現在の会社に入る前に1社、違う会社で仕事をしました。東京で就職活動をして、東京の会社に就職したはずが、研修は大阪で行われ、1ヶ月の研修終了後に東京に帰れると思っていたら、まさかの大阪配属。そこから3年間の大阪での寮生活が始まります。社員寮は築40年くらいの古い建物で、共同便所、共同風呂。部屋の鍵はあってないようなもので、酔っ払って先輩が乱入してくるのはしょっちゅう。プライバシーも何もあったもんじゃなかった。まあ、それはそれで、楽しかったのですが。

寮生活が2年過ぎた頃に、東京で仕事をしている彼女ができ、遠距離恋愛をすることになりました。この遠距離恋愛で2週間に1回東京に帰ることになります。薄給だったので、旅費の半分は彼女に出してもらいました。そんなことを続けて1年。寮でテレビを見ていると銀座が映っていました。「テレビでこんな近くに映っている銀座に俺は何で行けないんだ!」と思い、大阪生活に区切りを付ける覚悟を決めます。そして、3年と1ヶ月の大阪生活に区切りをつけ、会社を退社し、東京へ戻りました。東京で再就職をすることになるのですが、今さら就職活動してもどうなの?と思い、親父の経営するクロップオザキに入社したという訳です。クロップオザキの入社する動機は、彼女に会いたいために、大阪から東京に戻りたかった、就職活動する気がなかったからという不純なもの。その1年後に彼女とは結婚し、今も夫婦として何とかやっています(笑)

そんな親の会社を継ぐ覚悟もなく入社し、やったこともない営業をいきなりやったので、仕事の苦労はしました。お客様に怒られるのは日常茶飯事。「尾崎さん、何も考えなくていいから、言われたことだけやってよ!」なんて言われたことも。納期前に生地を大量に縫製工場に送って、工場の社長に激怒されたことも。夜中の倉庫で、徹夜で補修作業をさせられたことも。そんなでも、見捨てずに商売をしてくれたので、本当に感謝です。さらに、納期が間に合わないので、上海に日帰りでモノを運んだこともあります。最近でも1泊2日で大連なんていうのもありましたが・・・。結構、そういう弾丸出張やスクランブル発進みたいな行動好きなんですよね(笑)

海外出張あるある、いや、ないない

出張と言えば、入社当初は国内も海外もまったく出張など無かったのですが、今は海外縫製がほとんどなので、海外出張が年に何回もあります。海外に行くのは19歳の時に初めて、友達と行ったグアム。飛行機に乗るのも初めてで、死ぬ気で飛行機に乗ったのを思い出します。あれから30年。今では知らない内に空の上なんてことも。そして、着陸の振動で目が覚めるのなんていうのも多々あり。それだけ、海外に行くのに抵抗が無くなったってことです。と言うより、旅行でも出張でも海外に行くのが大好きなんです。

ですが、海外出張では、あり得ないミスを何度も犯しています。まず、パスポート忘れを3回。2回はカミさんに持ってきてもらい、事なきを得ましたが、1回は乗れませんでした。飛行機の出発時刻間違いも5回はあります。強烈だったのは、パリに行くのに出発時刻の1時間前の自分の家の最寄駅にいました(空港まで1時間以上掛かる場所)。時刻間違いに気づき、急いでタクシーに乗り、運転手さんにも初め無理だと断られましたが、何とか走ってくれて、神業的に間に合いました。でも、韓国行きの時は、出発の30分前に空港に着いたら、ダブルブッキングで乗れなかったこともあります。海外での空港間違い(羽田と成田みたいな)のも数回あります。これもかなり焦ります。海外出張は好きなのですが、ドジなことも結構やっていて、冷や汗ものです。

ちなみにアメリカには2年半ほど滞在していた経験もあります!英語が通じず、電話が2週間通じなかったですが。

今まで何カ国行ったことあるかな。これを機会に数えてみます。

アジアだと、韓国、中国、台湾、タイ、ベトナム、シンガポール、マレーシア、スリランカ、バングラディシュ

ヨーロッパは、イタリア、フランス、ドイツ、イギリス、スペイン、スイス

北米は、アメリカ、メキシコ、ケイマン諸島(国じゃないけど)

18カ国か。行った事のない国にもっと行きたいですね。中東とか興味ありますね。パスポートを忘れないようにしてね。

そう言えば、海外で1ヶ月に2つのiPhoneを無くしたことも!

生い立ち

1970年 台東区浅草橋で生まれました。3歳までは、埼玉県の志木で過ごします。その後、千葉県の鎌ヶ谷市に引越し、大学までずっと鎌ヶ谷に住んでいました。なので、千葉っこです。1976年 鎌ヶ谷市立の小学校入学。学区内で一番遠いところから通学していたので、徒歩で30分くらい掛けて通学していました。小学校の時から、ファスナーを短く詰める内職作業の手伝いをやっていた記憶があります。そのお駄賃でお菓子やジュースを買うのがとても楽しかった。

初めに住んでいた志木らしいが記憶なし

今でこそ鎌ヶ谷も都心のベッドタウンとして発展していますが、当時は田んぼ、沼、ドブ川、森と自然がいっぱいで、子ども同士でいろいろな遊びをし、クワガタ捕りやザリガニ捕り、高学年になると、船橋まで友達と自転車で1時間掛けて釣りにもよく行きました。

小学校6年の時に、親父は会社を創業。会社は、東京の中央区日本橋久松町で、当初は母も手伝っていました。その時、会社が遠いので、東京に引っ越しをするという話しが持ち上がり、ほぼ決定だと聞いていた私は黙っていることができず、友達に自慢げに東京に引っ越す話をしていました。ところが結果的に、社員を雇い、母は会社に行く必要がなくなったので、引っ越しの話しもなくなってしまいました。みんなに話してしまった手前、恥ずかしい思いをした思い出があります。憧れの東京はこの時から遠かったんですね(笑)

1982年 鎌ヶ谷市立第四中学校入学。小学校よりさらに遠いところに学校があり、徒歩で40分掛けて通学ししていました。中学では軟式テニス部に入部。団体戦ですが、県大会で準優勝しました。2年生からは試合でほとんど負けたことが無かったので、勝負に勝つということの喜びを知り、負けず嫌いの性格もこの時に形成されたのかもしれません。

千葉県大会準優勝!

もう一つ中学時代の経験で思い出深いのは、友だちと子供だけで電車に乗り、いろいろなところに旅行に行ったこと。中1の時、電車好きな友だちがいて、当時の国鉄が行っていたイベントで「いい旅チャレンジ20000km」というものがあり、これに夢中になりました。まず、千葉を一周電車で周り、東京の国鉄はほとんど制覇。中1の終わりには、長野を一周し、名古屋経由で帰る一週間ほどの旅にも行きました。それからも、関東近県、山梨、長野、新潟、福島など電車の旅によく行きました。中3の最後に、彼と2人で北海道全体を周る2週間の旅に出ました。行き・帰りは青森まで夜行急行「八甲田」で片道14時間掛けて行き、青函連絡船に4時間揺られ、北海道はほぼ全体をユースホステルに泊まりながら一周する旅で、とてもいい経験でした。自分たちで計画を立て、旅に出て、新しい景色に触れ、旅する中で出会う人たちとの会話、すごく楽しかったのを覚えています。今でも日本の地名に詳しいのはこの時の名残です。

高校からはようやく東京の学校に進学。この学校は男子校でした。千葉の田舎から出てきた私にとっては、かなりのカルチャーショックを受けたのを覚えています。。ツッパリのような不良はいなかったが、遊びはませていて、お酒、タバコ、飲み屋、ディスコ、麻雀など遊びは高校時代にすべて覚えました。

高校時代にはDCブランドブームが起こり、高校生なのに何万円もする高い服を求めました。その資金調達のために、友だちのお父さんが経営していた喫茶店で高1からアルバイトをしていました。授業が終わり、5時頃まで部活、その後、バイトし、家に帰るのは11時過ぎみたいな生活だったけど、高校時代は楽しかったですね。今でも高校時代の友だちとは付き合いがあって、よく会っています。

高校の修学旅行

大学時代はバイトに明け暮れて、学校に行くよりバイト先にいる方が時間が長いという生活。錦糸町にあったカジュアルレストランでバーテンダーようなお酒を作る仕事をしていて、カクテルなんかを作っていました。今でも、カクテルを作る事ができます。カクテルは飲まないので、作らないけど。

大学のバイト仲間と

経営者として

私がクロップオザキの社長になったのは、東日本大震災のあった2011年の4月。当時は電気の供給制限などもあり、東京でも街も暗く、さらに自粛ムードで街に賑わいがなかったのを思い出します。当社は2008年のリーマンショックまでは、順調の売上を伸ばし、拡大を続けてきました。スタッフも売上に比例して増え、最大で60人を越え、売上も32億円くらいまでなりました。しかし、リーマンショックを境に業績は下落傾向に、東日本大震災でさらに追い討ち。自分が社長に就任した後も、売上、利益は減少していく一方。社長になってからは、何が悪いのかわからずに、悩んでばかりいました。環境のせいにしたり、スタッフのせいにしたりしていました。経営者としての覚悟が決まっていなかったのです。心構えがなっていませんでした。辞めていくスタッフもたくさんいましたし、リストラもしました。私が社長になってから、全体の1/3のスタッフが辞めていました。

これではダメだと悟り、研修に参加することにしました。経営に対する心構えを学び、コミュニケーションを改め、財務、マーケティングも勉強しました。スタッフにも研修を受けてもらうことにしました。中途でしか採用していなかったのを、新卒採用もするようにしました。今では、営業スタッフは新卒でしか採らない方針でいます。

社内イベントのゴルフ合宿!

社長就任から5年目にしてようやく、売上が前年を超えることができました。6年目にはまた、減収になりましたが増収を果たしました。まだまだ、自分のやっていることが、正しいのかどうかもわかりませんが、今は経営者として仕事を楽しめるようになり、やっています。お客様の役に立つ仕事、世の中の役に立つ仕事をして、会社もスタッフも成長していく。そこに喜びを感じる経営をしていきたいと思っています。

上海クロップのスタッフ

東京のクロップオザキのスタッフ

社長ブログ 毎日更新中!(5年継続中)https://ameblo.jp/cguhiro

Twitter 毎日「今日のボタン」をツイート!(「#今日のボタン」で検索)https://twitter.com/cropozaki

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尾崎博之(クロップ)の経歴

略 歴
1970年2月 東京都台東区浅草橋で誕生(堀ちえみと一緒の誕生日)
1982年3月 千葉県鎌ヶ谷市立南部小学校卒業
1985年3月 千葉県鎌ヶ谷市立第四中学校卒業
1988年3月 明治大学附属明治高校卒業
1992年3月 明治大学経営学部卒業
1995年5月 ユニチカ株式会社卒業(退社)
1995年5月 株式会社クロップオザキ入社
2011年4月  株式会社クロップオザキ 2代目社長に就任
趣味・好きなもの 出張、旅行、ゴルフ、子どもの野球、アンチ巨人のヤクルトファン、昔は鉄道、鰻重、そら豆、うるめイワシ、お酒全般(特に赤ワイン)
得意なこと・もの ボタンを数えること、野球の球拾い、ゴルフのアイアンショット
家族構成 妻、娘、息子2人の5人家族
ニックネーム  クロップ (会社名から命名)

ちなみにクロップオザキの由来は、創業者の名前から来ています。創業者である相談役の名前は「尾崎 實(実)」です。英語でクロップは“crop”と書き、日本語だと「収穫物、作物」という意味があります。名前の「実」をこの収穫物の意味に掛け、なおかつ、商売が実るようにということで、クロップオザキ“Crop Ozaki”になった。要するに「実 尾﨑」を英語で言ったということです。社名の横にあるマークはボタンをCropの頭文字の“C”で囲ったデザインになっています。これは創業者が自らデザインしたものです。

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